【運命論と自己責任論?】『親ガチャの哲学』で分かる分断【感想・書評】

『親ガチャ』という概念

について「そんなん自己責任じゃない…?」と思う方に一読してもらいたいのが「親ガチャの哲学」。努力せずに成功したいヤツが、言い訳程度に言っている程度の『親ガチャ』だと思っていたけど、実際は結構 違っているコトが学べた。

 

正直、読むまでは

人が社会で成功できるかは自分の努力しだいだろ…

とか思っていた。ちなみにこれは自己責任論。人間は自分の意志で人生を選択できるということを前提にした考え方である。ビンボーに生まれながらも成功した人がいる。松下幸之助とか。むしろ貧困を反発力として成功できたような人だっている。

 

だけど、生まれながらに(ほぼ)決定してしまうようなことだって間違いなくある。虐待する親の元に生まれてきた子どもは自分でどうこうできる問題でもないし、家庭環境のせいで選択肢が狭まることもある。

努力は誰だってできるだろ?
貧乏だけど東大に合格するヤツだっているし…

「お前は頭が悪いから何やっても無駄」と言う親の元では努力に価値を感じることさえできなくなってしまう。一見、否定できる点が見当たらない『親ガチャ』という概念について、社会・哲学という観点から分析を進めるのが本書である。

 

 

というワケで今回は、「親ガチャの哲学」という作品について、読了後のレビュー・感想をまとめていきます。あ、記事本文では随所にネタバレや本文の引用もあるので、気になる方はここらでブラウザバックしてね。

 

 

 

 

「親ガチャの哲学」
概要・おすすめポイント

もっと裕福な家庭に、魅力的な容姿に生まれたかった、いっそのこと生まれてこないほうがよかった……

近年、若者の間で瞬く間に広がった「親ガチャ」という言葉。人は生まれてくる時代も場所も、家庭環境も選ぶことはできない。そうした出生の偶然性に始まる人生を、私たちはどう引き受けるのか。運命論と自己責任論とが交錯するなか、人気漫画からハイデガーやアーレントまで、社会と哲学の両面から読み解く。

 

引用:新潮社「親ガチャの哲学」

 

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『難関大学合格は運なのか努力なのか』哲学研究者が考える大学共通テストで“親ガチャ問題”出題の意図

 

「親ガチャの哲学」を読んだ感想・レビュー・心に残ったポイントは以下のような感じ。

 

 

なんで『親ガチャ』が支持される?

そもそもなぜ『親ガチャ』っていうネガティブな考えが支持されるのか?という疑問について、筆者の谷川さんは

親ガチャとは、不運であり、苦境に陥った人が、自分の置かれている状況を、あるいはその人生を理解するための概念である、と考えることができます。その意味でこの概念はそもそも悲観的であり、厭世えんせい的なのです。

と述べている。世の中には苦痛が多く、人生は生きるに値しないというような絶望的な考え方を元にした人生観を厭世えんせい主義というそうだ。

バカバカしい……

と思える人は親ガチャ当たり側。

努力で乗り越えられない、運の違いが生む格差。そもそも努力しようとも思えない、無気力な自分の存在を肯定できない人達が、どうにか腑に落ちる理由を探すと『親ガチャ』という概念がピタッと当てはまるそうだ。

 

 

『自己責任』では解決しない

社会的な成功・貧富の差、これらは結局のところ(統計的に見ても)、

  • どの親・家庭に生まれてくるか?

によって条件づけられる場合が圧倒的に多い。まさに『親ガチャ』だ。

人生の全てが『ガチャ』だし『運』じゃんアホか!

『親ガチャ』が他の『ガチャ』と大きく異なるのは、選択の余地がないという点にあるようだ。進学する学校とか、働く場所などはある程度 本人に主体・ガチャを回す権限がある。しかし、『親』、もっといえば『生まれるかどうか』というガチャについては選択肢がない。選択肢がないくせに、挽回できないようなとんでもない格差があることは不公平に他ならないと著者は説く。

 

たとえ人生が無数の偶然に左右され、そのほとんどが仕方ない現実だとしても、生まれた家庭によって将来の経済状況が決定される社会は、やはり間違っているのです。そこから目を背けることは、苦境に陥った人々に追い打ちをかける、非常な自己責任論と紙一重なのではないでしょうか。

 

自己責任、という言葉が人々を分断する。

そもそも一人では解決できない問題を、個人の性格・責任へと矮小化することは、苦しんでいる人に「そりゃお前が悪い」「努力するべきだったんだ」と言っているようなもので、さらなる追い討ちをかけることに繋がってしまうらしい。

 

 

大事なのは想像力と対話

本書は、

すなわち、責任を出生の偶然性と両立しうるものとして概念化すること、それによって、運の不平等による分断を乗り越える社会の在り方を模索する、ということです。

という目的に向かって書かれている。

先述したように『親ガチャ』とは、苦境に陥った人々が、自分の苦境を理解するために選び取る概念だ。根本的な問題は、その人にその概念を選ばせ、納得させ、そう考えでもしなければ生きていくことさえままならなくさせている苦境にある。

私には関係ないでしょ。

と切り捨てるのは簡単で、手っ取り早い。間違っているワケでもない。しかし、存在を否定され、尊厳をふみにじられ、傷つけられてきた人々がいることについて無関心を貫くのは避けるべきだ。進撃の巨人においてエレンが壁外人類の8割を死滅させたように、結果として、昨今の凶悪犯罪事件を起こすような『無敵の人』を生み出す危険性がある。

じゃあどうすんだよ?

自分としては、対話(主に傾聴)と想像力だと思う。

詳しくは本編を読んでほしいが、苦境に陥り『親ガチャ』という概念に頼らざるを得なくなった人には一種の諦念がある。

未来に対しても、過去に対しても、自分の意志で何かを選択することができない───そう感じたとき、私たちには自分の人生を自分の人生として理解することができなくなります。言い換えるなら、自分の人生を引き受けることができなくなるのです。

しかし、自分の言葉を誰かが聴いてくれている、という確信を持てるなら、自分自身が語ることを通じて、自分と向き合うことができるそうだ。

 

他の人の苦しみについて想像できて、連帯できるような包容力のある人物になりたいと思った。

 

 

「親ガチャの哲学」
印象的だった文章

「親ガチャの哲学」を読んでみて印象に残った部分、一節を備忘録として抜き出しておく。多くなり過ぎたので数を減らしたが、少しでも気になるフレーズがあれば是非、本編を読んでね。

 

逃避としての「親ガチャ」

一方、苦境に陥っている人が、自分の人生を親ガチャによるものだと考えることには合理性があります。もしも人生が親ガチャの結果なら、自分が苦境に陥っていることの責任は、自分にあるわけではない、と考えられるからです。このような状況の人々に対して、「お前が苦しんでいるのはお前が頑張らなかったからだ」と責任を追及することは、残酷な追い打ちをかけることにしかならないでしょう。

 

経済的な格差の「固定化」

経済的な格差の「固定化」は、親ガチャ問題の本質を付いています。裕福な家庭は、子どもに対して充実した教育を施すことができ、子どもは社会で成功する確率が高くなります。一方で、貧しい家庭は、子どもに対して十分な教育を施すことができず、子どもが社会で成功する確率は、相対的に見ると裕福な家庭の子より低くなります。

 

 

偶然性を選択するという主体性

そもそも「ガチャ」は、レバーを回さなければ玩具やアイテムを引き当てられないのであり、そこには偶然性を選択するという主体性が要求されます。レバーを回すのは自分であり、レバーの結果がなんであるかは選べないにしろ、とにかくレバーを回すか回さないかは選べるのです。このように、偶然性に支配された選択の機会が人生には幾度もあることは、確かに事実でしょう。

しかし、それらの「ガチャ」と、「親ガチャ」を並列させることはできません。なぜなら子どもにとって、この世界に生まれてくることを自分で選択することは、そもそもできないからです。

生まれてくること──すなわち出生は、一方的に与えられる帰結なのであり、それに対して私たちはいかなる主体性も与えられていません。私たちには、「子ガチャ」のレバーをひねることは選べたとしても、「親ガチャ」のレバーをひねることはできません。そこにはいかなる選択の余地もないのです。

 

 

親ガチャの『外れ』について

実際には「外れ」を引いている人がいるのに、「でもそれは見方によっては当たりだよ」「それを当たりだと思えないのは君の視野が狭いからだよ」といった、欺瞞ぎまんを苦しんでいる人に強い、その苦しみを覆い隠し、見えないようにする危険性さえ孕んでいるのではないでしょうか。

 

 

何かを選択することができない

加藤は、他者に対して「自分の言葉を聴いてもらえるだろう」と信じることができない自分の性格を、母親の教育のせいにしていました。つまり彼は、自分の価値観や行動指針を、自分で選択したものの、自分で意志したものと見なすのではなく、他者によって準備されたもの、形成されたものとして捉えているのです。

未来に対しても、過去に対しても、自分の意志で何かを選択することができない───そう感じたとき、私たちには自分の人生を自分の人生として理解することができなくなります。言い換えるなら、自分の人生を引き受けることができなくなるのです。

 

加藤智大(秋葉原通り魔事件)

 

 

「私」が『私』であること

「私」が自分の行為に責任を感じるのは、自然現象における原因結果の関係という意味で、「私」に原因があるからではなく、「私」が「私」であること、「私」が存在すること自体に、何の理由もないからである。

 

 

思考停止という誘惑

考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。

 

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『親ガチャ』が支持を集める理由

こうした諸問題が重なり合って、「親ガチャ」という言葉が多くの人から支持される社会状況が形成されていきたのではないでしょうか。私たちは、自分の努力で運命を変えようと思っても、そんな希望を打ち砕くような現実を見せつけられているのかもしれません。あるいはずっとそこにあった残酷な現実に、気づき始めているのかもしれません。

 

 

総括:「親ガチャの哲学」
読書レビュー

『親ガチャ』という考え方

について理解が深まった気がする。

生まれたときの条件によって自分の人生が決定されていて、その運命は変えることができないという後ろ向きな価値観。僕は幸いにも、そのような厭世観には無縁な人生を送ってきたが、今後も無関係だとは思えない。

 

しかし、

親ガチャ的厭世観を取ること自体が、新たな苦境を呼び起こす可能性もある、ということです。この厭世観を取らなければ決して陥ることのなかった、新たな絶望をもたらしうるからです。

だからこそ、人々はやはり親ガチャ的厭世観から解放されなければなりません。それは、今ある苦しみを癒してくれるものではなく、自分自身をさらに毒し、さらに追い詰めていく人生観だからです。

というように、逃避的な宿命論でもある『親ガチャ』の本質を理解して、誘惑に負けないように生きていきたいと思った。

 

 

気になった方は是非。

 

 

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